信州 信濃 松本 和太鼓鳴桜 長野

 

野 
 

 

 

  HOME /ブログ / メモギャラ  / メンバー募集 / 鳴桜(なを)について / 和太鼓講座 / 和太鼓団体を作ろう 
/ お手伝いさせて頂いている団体
/ 小さな社会貢献    

  ◆松本市和太鼓鳴桜(なを) 主宰者紹介

 
初めて語る和太鼓と芝居と芸能の事


 時の流れに身を任せていたら、いつの間にか芸能大好き人間になり、大して優秀でもない太鼓打ちになってた。現在は、地元の若者を集めてこんなことに。和太鼓鳴桜(なを)主宰、百瀬の 生い立ち。お時間のある 方だけお目通しを!!


生誕

 

 1956年12月07日、松本市神林に生まれる。2200gの超未熟児(頭の中が未発達のままこの世に出てきた)。俗にいう早産?
親は医者に、”思い出すから写真は撮らない方がいい”と告げられたんだそうだ。だから、可愛い盛りの写真はなし。もともと、『生きてるだけで丸儲け』の人生の始まり。
 

 


小学校時代

 

図書室で、電気製品の回路図をノートに書き写す のが趣味の”不思議”ちゃん。4年生から、演劇クラブ所属。
今にして思えば、舞台好きな母親のDNAの芽生えか?。

 


中学校時代

 

短距離とハードル競技の選手。人よりコンパクトな足(;_;)が、有利に。
2年生で100m13.6秒(中学校記録/当時)を所持。多分、追い風参考モン??
 

 


学生時代 

 

 

孤高の山岳クラブ所属。毎日、マラソンで体力づくり。たま〜に沿道の果樹や野菜を失敬し空腹を満たす。
近所の人も多目に見てくれた、のどかな時代。

世界史の先生が、”蟹工船”の映画チケットをくれた。観に行って、同時上映の”男はつらいよ”が、ツボにハマる。
以降、山田洋次作品を見尽くす。この過程で、”人を泣かすには笑わせてから”という日本人の琴線の触れ方を学ぶ。
 

 


芝居との出会い、全国大会

 

 劇団統一劇場(後にふるさときゃらばん)に出会い熱狂的に支持。彼らは、芝居はとてつもなくヘタ。けど、心に響くものがあった。
自分の中の芝居の虫が目を覚ます。劇団炎で芝居を学んだ百瀬茂敏さんに師事。芝居創りを学ぶ。その後は、素人芝居に没頭。先輩が全国大会で優勝したが、自分たちは続けず。
ならばと、自分で台本を書き上げる。そして、自分で演出。これが、地方大会を勝ち抜き、全国大会で最優秀賞。他に創作脚本賞やら舞台美術賞なんてのもあれこれ頂いた。

 山田洋次映画から学んだ、笑わせる場面を作ってから泣かせたのと、ふるさとキャラバンの芝居の創り方をトレースしたのが勝因。全国大会出場の過程で松本市民会館他で公演。 近所の人が見に来てくれ た。そして、喜んで帰るじいちゃんやばあちゃんの顔が忘れられない。この辺りが、いまだに”和太鼓のステージを作りたい”、なんて考えてる原点なのかと思う。

 ただ、全国優勝で芝居に対する情熱は急に冷めた。その後2作品を創作し、県大会で優勝した。でも、全国大会には行かず。
 

 


和太鼓との出会いは交通事故のようなもん

 

 このころ、地元の秋祭りに芸能がなく寂しい思いが募り始める。自分たちでお神輿(みこし)を作ろうと考えた。田楽座を退団した、上原誠一さん(故人)の噂を聞き 、当てずっぽで電話をかけまくり探し出す。そして、ご自宅まで相談に押しかける。丁度、上原さんが太鼓工房を始めた時で、うまい事丸め込まれ、顧客一号に。自分の意志とは無関係に、太鼓人生を歩み始める。

 1980年頃、仲間六人で『神林太鼓連』を結成。秋祭りで演奏。間もなく、日中青年文化交流事業の文化使節として好条件で中国渡航のお誘いあり。当時、和太鼓団体の数が少なく神林太鼓連のような新米太鼓にもおいしい話が舞い込んだ。快諾。上海、北京の数千人のホールで演奏。

 帰国後、”秋祭りに芸能も作りたい”と騒いでいたら、同級生の女性達が、上田市の大学生から”御神楽”を教わって来てくれた。(御神楽のいわれは持ち帰らず)以降毎年の秋祭りで、太鼓とセットで 神社に奉納。
今も続いている(エヘン)。

 


なぜ芸能大好き人間になったか 

 

1986年夏、北海道へ旅行。
北海道大学の構内を歩いていたら、学生が御神楽を踊ってた。何で北海道で御神楽を踊ってるんだろう??
腰を抜かすほど驚いた。使い始めたインターネットの掲示板で、御神楽はどういう芸能??と尋ねる。これは、大森神楽だという返事がある。翌年2月その方の案内で、膝まで埋まる大雪の岩手県大森衣川を訪問。大森神楽(御神楽)発祥の大森分校と神楽祭を見る。地元の衆や大森神楽の張本人三好京三さん(故人)と交流。神林の御神楽は、わらび座が大森神楽をモチーフに創作したダンスだと知る。この 過程で、ホンモノの芸能は、その土地の水や空気や人を含めた一切合切。現地で見なければ感じないという哲学が出来た。芸能の舞台化に対しても、考え方がまとまる。この哲学に基づき、12月2〜3日の、秩父夜祭取材に7年 続けて通う。 その後、全国各地に取材に歩く。現地の人との会話が楽しくて仕方ない。
 

 

神林太鼓連にて

 

演目は増やさない。そのかわり、キッチリ練習し出演に備える。これが当時の神林太鼓連のスタイル。バブル景気に乗り、最盛期には 毎週末という位の出演。ギャラも多く財政は豊か。でも、年中出演練習してた印象がある。これはこれで立派 だが、年々色々なことを感じ始める。個人的に京都に行って太鼓センターの講座を受講してみる。
 

 

伊那市まつり工房/むげん隗

 

1998年。伊那市まつり工房の『工房祭り』を見る。そこで”むげん隗”という団体の、天地 と言う曲を見て衝撃を受ける。和太鼓の可能性に気づき、まつり工房の天地講座を三回受講し、ようやく半分モノにした。この曲が打ちたい。強く思った。

   
 
神林太鼓連退会を決意
 

1999年。太鼓を始めた年に生まれた地元の青年が神林太鼓連に入会。この時、神林太鼓連での自分の役割lは終わったと感じ退会を決意。引き止められたけど、話し合い を尽くし我侭を聞いてもらった。


鳴桜(なを)をつくったのは偶然 みたいなもん
   
 

2000年県内誌NaOに、『劇団メンバー募集』と『和太鼓メンバー募集 』を投稿する、2枚のハガキを送る。理由はわからないけど、和太鼓メンバー募集 だけが掲載される。数名の若者からオファーを頂き発足。が、太鼓は一張もなし。
貯金をハタき、長胴太鼓4張を購入。神林太鼓連での経験から、外部出演はなるべく控え、自主コンサートのできる和太鼓団体を目指す。

その後の、鳴桜(なを)に続く、松本市の他の和太鼓団体の自主公演を見ると多少の刺激になったかなと思う。外に出て営業の演奏をしないので、運営資金は苦労続きだけどね。
 

 

和太鼓さんとこの事、和太鼓響の事

 

2004年から和太鼓こども講座を開催。半年間の講座終了後には解散する予定だった。が、受講生の皆さんは続けたいとの事。放り出すのも無責任と感じ、和太鼓さん とこの旗揚げをお手伝い。翌年、和太鼓響も旗揚げをお手伝い。
 

 

和太鼓円のこと

 

2009年鳴桜(なを)を応援して下さっていた藤森さんから突然の電話。事情をお伺いしているうちに和太鼓円の旗揚げをお手伝いする事に。
 

 

今。。。

 

2011年 和太鼓花水木 の旗揚げをお手伝い。
 

 

夢追い人 のこれから

 

庶民の中に生き続ける”フーテンの寅さん”が自分の原点。だから、口には出さないけど、権威主義の和太鼓団体が大嫌い。

所詮、和太鼓はキャバレー回りや温泉ホテルの宴会の出し物として育ってきた、”大衆娯楽”
世の中が考えてるほど高貴な芸能ではない。だから、もっともっと自由に叩いていいんだ。そう考えてる。

和太鼓の衣装は法被にねじり鉢巻、腹当てに又引き。古来からのスタイルの太鼓を好む人はそれでいい。けど、自分は他の道を探したい。

目標は、笑わせて泣かせる太鼓。

          (まだ)夢を追いかけ中。
 

 


 

 和太鼓のこと、その他のこと。なんなりとお問い合わせくださいませ。 →  メールフォームを使っています。


1

HOME /ブログ/ メモギャラ / メンバー募集 / 鳴桜(なを)について / 和太鼓講座 / 和太鼓団体を作ろう 
/ お手伝いさせて頂いている団体
/ 小さな社会貢献  


和太鼓 鳴桜(なを)  ご連絡はこちらからどうぞ 
〒390-1243 長野県松本市神林 1545
Copyleft(C) 1999-2010 WADAIKO NAWO All rights reserved. Last update 2015/01/22.